巨大な軍事計算機から“あなたの机”へ|パソコン誕生の意外な歴史

机の上に置いてある旧型のPCの画像

現代の私たちにとって、スマートフォンやノートパソコンは生活に欠かせないものですが、かつてコンピューターはごく一部の専門家や軍事機関だけが扱える巨大な機械でした。例えば、第二次世界大戦中に弾道計算のために建設された初期の電子計算機ENIACは、50万ドルの費用がかかり、30トンもの重さがあり、2,000平方フィート近くの床面積を占めていました。

このような巨大な機械から、誰もが所有できる「パーソナルコンピューター」への劇的な変化は、いかにして起こったのでしょうか。その歴史は、1970年代にシリコンバレーで巻き起こった小さな技術革新と、熱狂的な愛好家たちの夢から始まります。

PC革命の種:マイクロプロセッサの発明

PCが誕生するための最大の前提条件は、コンピューターの頭脳となる部品の小型化でした。

初期のコンピューターは、その機能ごとに異なる集積回路チップを必要としていたため、非常に大型でした。しかし、1971年、この状況を一変させる発明が誕生します。インテルのエンジニア、テッド・ホフによって開発されたのが、マイクロプロセッサです。

1971年に登場したインテル初のマイクロプロセッサ「4004」(1/16 x 1/8インチのチップ)は、巨大なENIACと同じ計算能力を持ち、カスタマイズ可能な汎用プロセッサとして、さまざまな電子機器への応用を可能にしました。

理論上、このマイクロプロセッサが発明された1971年時点で「マイクロコンピューター」の大量生産が可能になっていました。しかし、当時のIBMやNixdorf Computer AGなどの確立されたコンピューターメーカーは、個人使用のためのコンピューター開発に意義を見出していませんでした。

ガレージからの始まり:Altair 8800の衝撃

個人向けコンピューターの歴史は、既存の大企業ではなく、雑誌から始まりました。

1975年1月、雑誌『Popular Electronics』が、世界初の個人用コンピューターとして「Altair 8800」を発表しました。これはエド・ロバーツによって開発・構築され、価格397ドルの組み立てキットとして提供されました。

このマシンは、現代の基準から見ると非常に原始的で、キーボードも画面もなく、出力は点滅するライトの列だけで、データ入力はトグルスイッチを切り替える必要がありました。

しかし、その手頃な価格と、「使える程度」の性能は、当時のコンピューター愛好家やハッカーたちの想像力を掻き立てました。発表から数週間で、雑誌の編集部には何千もの注文が殺到し、将来巨大に発展するPC市場の萌芽を予感させました。

この予期せぬ需要に刺激されたのが、後にマイクロソフトを共同設立するポール・アレンビル・ゲイツです。彼らはAltair用のBASICインタプリタを作成し、その資金でマイクロソフトを設立しました。

「ガレージ企業」とPCの「三位一体」

Altair 8800を手にした人々は、単なるパソコンの利用者ではなく、自らを「パソコン革命」を築き上げる先駆者だと考えていました。

このパイオニア精神は、カリフォルニア州メンローパークの「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ」で具現化されました。ここでは、コンピューター愛好家たちが集まり、アイデアや知識を共有し、パーツを交換していました。

このクラブのメンバーであったスティーブ・ウォズニアックは、Altairに感銘を受け、より少ないリソースでより多くのことができる独自のコンピューターを設計しました。これがApple Iです。

Apple Iは、タイプライターのようなキーボードを持ち、一般的なテレビに接続できる機能を備えており、すべてのモダンなコンピューターの原型となりました。ウォズニアックがApple Iを手作りで製作する間、スティーブ・ジョブズが販売に着手し、成功を収めました。

そして、1977年はマイクロコンピューターの歴史において極めて重要な年となりました。この年、『Byte』誌によって「三位一体(トリニティ)」と呼ばれた以下の3機種が登場し、PCは趣味の範疇から商業化へと踏み出します。

Apple II(1977年4月出荷)

キーボードとカラー画面を備え、外部カセットテープ(後にフロッピーディスク)でデータを保存でき、スプレッドシートプログラム『VisiCalc』などのアプリケーションにより、ホビーイストだけでなくビジネスにおいても実用的なツールとなりました。

Commodore PET 2001(1977年)

プロセッサ、キーボード、カセットデッキ、モニターが一体化されたユニットでした。

Radio-Shack TRS-80(1977年)

デタッチャブルキーボードとZilog Z80プロセッサを中心に構築され、発売時は600ドルでした。TRS-80は1982年までApple IIシリーズを5倍上回る売上を記録し、この時期のベストセラーとなりました。

これらの機種は、モニター、キーボード、ソフトウェアを装備し、最初の「PC標準」を設定しました。

IBMの参入と「デファクトスタンダード」の確立

1970年代後半から80年代初頭にかけて、シリコンバレーのPC市場は成熟し、ビジネスにおいてもその可能性が注目され始めました。

Nobody ever got fired for buying IBM(IBMを買ってクビになった者はいない)

という当時の格言が示すように、企業からの信頼と重厚な評判を持っていたIBMに対して、ついにPCを開発すべきだという要求が高まりました。

巨大組織であるIBMにとって、この動きは「象にタップダンスを教えるようなものだ」と評されましたが、IBMはビル・ロウ氏に率いられたチームを結成し、異例の速さ(通常4〜5年かかる開発サイクルをわずか1年で)で製品化に乗り出しました。

そして1981年8月12日、IBMはニューヨークでIBM PC 5150を発表しました。このマシン自体に技術的な革新はありませんでしたが、そのシステムはすぐに業界の標準となりました。

  • IBM PCが標準を確立した理由
  • オープンアーキテクチャ:IBMはPCの仕様を公開し、誰でもクローン機を作れるようにしました。
  • OSの選択:IBMはオペレーティングシステム(OS)の開発を外部のマイクロソフトに委託しました。マイクロソフトはQDOSを約75,000ドルで買い取り、IBM PC向けのOSとしました。IBMがこのQDOSの権利を買わなかったことは、後にビル・ゲイツにMS-DOSを生み出し、巨大な企業を築くことを許した、歴史的なビジネス上の誤りであったと議論されています。
  • 市場への影響力:IBMの信頼性と重みが加わることで、PCは単なるホビーではなく「本格的な企業向けマシン」としての地位を確立しました。

この成功の結果、1982年には『Time』誌が恒例の「Man of the Year」ではなく「Machine of the Year」としてコンピューターを選出しました。

日本市場と標準化の波

アメリカでPC革命が進行する一方で、日本でもパソコン(マイコン)ブームが起こっていました。

 国産PCの登場

日本ではNECが1979年にPC-8001を発売し、国内のPC普及に大きく貢献しました。その後、日立、シャープ、NECの3機種が初期の8ビット機の御三家と呼ばれました。1982年10月にはNECが16ビットのPC-9801を発売し、漢字ROMの内蔵などにより、その後の国内市場をリードしました。

DOS/V革命

1980年代後半まで、日本ではNECのPC98シリーズが独自の国内規格として市場を席巻していました。世界標準であるIBM PC/AT互換機には、日本語表示機能がありませんでした。しかし、1990年12月、日本IBMが専用チップを使わずにソフトウェアだけで日本語処理を実現する基本ソフト(OS)をリリースしました。これが通称「DOS/V」と呼ばれました。

価格破壊

DOS/Vの登場により、海外のPC/AT互換機メーカーが日本市場に参入しやすくなりました。1992年秋、コンパックがDOS/Vを搭載した低価格機「Prolinea 3/25 zs」を、当時としては驚異的な12万8000円で発売しました。当時人気のPC-9801USが24万8000円からだったことを考えると、その価格インパクトはとてつもなく、DOS/Vパソコンは国内でブームとなり、自作パソコンブームも牽引しました。

1990年代に入り、Windows 95の登場によってGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)が標準化されると、パソコンはマニアだけでなく誰もが使える時代へと突入しました。この時期には、東芝のDynaBookシリーズ(1989年6月)や、世界初のカラー液晶搭載ノートPC(PC-9801NC、1991年10月)など、ノートパソコンの小型・軽量化が急速に進みました。

さらに1998年には、経営難にあったアップルが初代iMac(iMac G3)を投入。ブラウン管一体型ながら、ボンダイブルーの美しいカラー筐体と手頃な価格(17万円台)で大ヒットし、若年層の心をつかみ、PCをカジュアルな存在へと変貌させました。


大型の軍事計算機から始まったコンピューターの歴史は、マイクロプロセッサの発明というブレイクスルーを経て、ホビーイストやガレージ企業によって個人用のデバイスへと変貌しました。

Altair、Apple、そしてIBMが確立した標準化の流れは、今日のノートパソコン、スマートフォン、タブレットといった多様な形で、私たちの生活の一部として続いています。

私たちは今、AIやクラウドとの連携が不可欠なモバイル環境の中でPCを利用していますが、これらの技術の背景には、1970年代にスイッチとLEDだけで構成された最初のPCキットに熱狂したパイオニアたちの情熱があるのです。過去を知ることは、PCの未来の使い方を考えるためのヒントにつながります。

オリジィだよ!最初のパソコンが“ガレージで作られた”なんて、今では信じられないよね。スイッチとランプだけの箱が、いつの間にか僕たちの生活の中心になってる。Altairを見て胸を躍らせた人たちがいなかったら、今の僕も存在してないかも。パソコンって“便利な道具”というより、人の想像力を形にするための相棒なんだと思う。これからAI時代が進んでも、その“最初の熱狂”を忘れちゃいけないね。

ノロジィだよ。自分用に親に初代iMacを買ってもらったことがいい思い出で、Macを使えばデザインの腕も上がると変な暗示があった。実際、当時WindowsからiMacに変わって作った作品は他人から評価されたんだよ。意識が変わったのかな。

参考文献History / Heinz Nixdorf MuseumsForum / bcs / コンピュータ博物館/ NIKKEI STYLEアーカイブ

Posted by Originology

世界には、たくさんの「はじまり」があります。その“はじまり”に出会うたび、「これって、どんなきっかけで生まれたんだろう?」と想像がふくらみます。Originologyは、そんな“はじまりの風景”をめぐる記録です。