パンの起源を辿る|古代文明から日本の食卓までの壮大な物語

パンが皿に置かれている画像

古代から現代に至るまで、パンは私たちの食卓に欠かせない存在です。パンの物語は、人類の文明の歴史と深く結びついており、その進化の軌跡を辿ることは、食文化と技術の発展を知ることでもあります。鋭い知性と温かい心をもって、この普遍的な食べ物であるパンの壮大な歴史を紐解いていきましょう。

文明の揺りかご、肥沃な三日月地帯での始まり

パンの物語は、紀元前6000年頃まで遡ります。舞台は、野生の穀物が豊かに育っていたナイル川流域の北に位置する「肥沃な三日月地帯」。この地域は、現在のパレスチナ、シリア、チグリス・ユーフラテス川流域、そしてペルシャ湾周辺を含む広大なエリアで、人類が初めて穀物を栽培し、食文化を築いた場所とされています。

この地域には、現代の小麦の祖先であるエンマー小麦やアインコルン小麦が自生していました。考古学的発掘調査では、紀元前6000年頃のものとされる、穀物の脱穀や製粉に使われた道具が発見されています。初期の人々は、自生している豊かな野生の穀物畑の周りに定住することで村落を形成したと考えられています。穀物収穫の難しさ、つまり穀物が熟して種を落とす前に収穫する必要性や、翌年の種を確保する必要性の観察が、意図的な穀物栽培へとつながった可能性が高いとされています。

食べられる粉への道のりと初期の加熱技術

小麦は、栄養価の高い胚芽、胚乳、ふすまを、外側の食べられない籾殻から取り除かなければ人間には消化できません。この作業は骨の折れる工程でしたが、熱を加えることで、穀物を軽くトーストすると、作業が容易になることが発見されました。この籾殻を取り除く作業を容易にするために、石の床を敷いた穴で火を焚き、火が消えた後に灰を掃き清めた熱い石が使われました。この石の穴は、現代のオーブンの前身となりました。穀物を脱穀し、石のすり鉢とすりこぎで砕いた後、そのままでは乾燥しすぎて食べにくかったため、水を加えてペースト状にしたと考えられています。そして、偶然か意図的かにかかわらず、この穀物ペーストを加熱し、粗野な形態のパンが誕生しました。

古代エジプトと発酵パンの偉大な発見

最初のパンは、ナイル川の肥沃な岸辺に沿ったエジプトで焼かれたと考えられています。おそらく、粗く挽いた穀物を水と混ぜて形作り、石の上に置いて太陽の下で干すか、熱い灰で覆って焼かれたものでしょう。古代エジプト人は、穀物を液体と混ぜて世界で最初のパンを作り、さらに初のオーブンを発明し、生地を発酵させて膨らませる方法を発見したとされています。食品歴史家のタナヒルによると、最初のパン焼き用オーブンは紀元前1500年頃のものだといわれています。発酵の発見は偶然だった可能性が高く、あるエジプトの主婦が生地をそのまま置いておいたところ、暖かい環境で天然酵母が繁殖し、焼き上がったパンはそれまでの無発酵のものよりも軽く、風味豊かになったのだと考えられています。

グルテンの特性と酵母の働き

すべての小麦粉が軽いパンを生み出すわけではありません。その鍵となるのは、高いグルテン含有量です。グルテンは、パン生地をこねる過程で伸びや弾力を与える役割を果たします。小麦は穀物の中で最も多くのグルテンを含んでおり、このため最も軽いパンは小麦から作られます。

酵母は驚くほどの力を持つ微小な単細胞生物で、成長する際に二酸化炭素ガスを生成します。酵母の発育に必要なのは、適切な温度(少なくとも70度)と、小麦粉や水といった栄養源です。

そして、この酵母と高グルテン小麦粉の組み合わせこそが、ガスを生み出して生地を膨らませ、気泡を閉じ込めた軽やかなパンを作り出す秘密です。特に古代エジプトは、酵母の成長に最適な温暖な気候に恵まれており、発酵が自然に進む環境が整っていたのです。

スターター文化とパンとビールの密接な関係

天然酵母に頼ってパンを発酵させる方法は非常に不安定でしたが、より安定した手法として、うまく焼けたパン生地の一部を「スターター」として保存し、次の生地に混ぜる方法が用いられるようになりました。この古代のスターターを使用する伝統は、今日でも特別なパンを作る際に受け継がれています。

酵母という存在が科学的に特定されたのは17世紀、レーウェンフックによる顕微鏡観察によってでした。その後、酵母の生化学的な働きの一部が解明されたのは、19世紀のパスツールの研究によるものです。

発酵の原理が理解されると、ビール酵母などの副産物も生地に加えられました。パンとアルコール飲料(特にビールとワイン)は、どちらも発酵プロセスを通じて作られ、古代から食事のパートナーとして長い伝統があります。古代エジプトではビールが日常的に飲まれ、大麦やキビのビールから得られた発酵穀物が、生地を膨らませるために加えられていました。実際、ビール、パン、タマネギは古代エジプトの労働者階級の主食であり、大ピラミッドを建設した奴隷たちへの支払いも、1日あたりパン3斤とビール2杯で構成されていたという記録があります。

ローマの製パン技術と階級格差

パン作りは地中海全域に広がり、ローマ人はそれを芸術へと昇華させました。ギリシャ人やイタリア人はビールを好まなかったため、パンを膨らませるのにワイン酵母を使用しました。

ローマ時代には、製パン技術が大きく発展しました。ギリシャ人奴隷であったローマのパン職人エウリサケスは、機械式生地ミキサーを発明したとされています。また、ロータリーミルの発明により、小麦粉を大量に生産することが可能になりました。それ以前は、穀物を鞍型の石板の上で手で前後に擦り合わせるサドルカーンが使われていましたが、ロータリーミルは砂時計型をしており、ロバなどの動物の力で2つの石を回転させることができました。これにより商業的なパン屋が可能になり、ポンペイの遺跡からは初期のパン屋の遺構が発掘されています。

この時代にはすでに、白パン黒パンのどちらが優れているかをめぐる論争が生まれていました。細かくふるいにかけてふすまをほとんど取り除いた白小麦粉は製造コストが高く、裕福な人々だけが手に入れることができました。そのため、白パンは特権階級の象徴的なステータスフードとして位置づけられました。

ローマ人はパンの種類をさらに多様化させ、添え物や製法にちなんでさまざまなパンを洗練させていきました。なかでも、遠くパルティアから伝わったとされる「パルティアパン」は、水を使って生地をこねることで、多孔質でスポンジのように軽い食感になるパンとして紹介されています。

パンの普遍的な象徴性と文化的な役割

パンは、多くの文化において宗教・慣習・文学の面から重要な象徴的役割を果たしてきました。エジプト人はパンを神オシリスからの贈り物と考え、ギリシャ人は穀物畑の女神デメテルからの恵みとして崇めていました。キリスト教では、パンはキリストの体を象徴するものとして宗教儀式に用いられます。また、ユダヤ教の種なしパン(マッツァ)は、エジプトから急いで脱出した際に食べられたパンを象徴しており、過越祭の儀式で重要な意味を持ちます。

中世ヨーロッパでは、パンは食事の道具としても欠かせない存在でした。庶民の間では、パンのスライス(トレンチャー)が皿の代わりとして使われていました。ホールウィート、ライ麦、大麦粉を混ぜて作られた古い平らなパンの上にシチューなどを盛り付けることで、パンが肉汁を吸い込みつつも皿としての機能を果たしていたのです。食事が終わると、そのトレンチャーは食べられるか、あるいは使用人や貧しい人々、犬などに与えられました。

日本へのパンの伝来と独自の進化

日本に西洋風のパンが本格的に伝来したのは、1543年にポルトガル人が種子島に漂着した時、鉄砲とともにもたらされたのが始まりです。私たちが使う「パン」という言葉自体が、ポルトガル語の「Pão」に由来しています。その後、1549年にフランシスコ・ザビエルらキリスト教宣教師が布教活動を始めると、パンも全国に広まりましたが、当時の日本でパン食は根付きませんでした。江戸時代に入り鎖国政策が敷かれると、パン作りは唯一海外に開かれていた長崎の出島で、オランダ商人のために細々と続けられるのみとなりました。

兵糧パンから「あんパン」の誕生へ

日本のパン食文化が大きく前進したのは、幕末の国防対策からです。1840年にアヘン戦争が勃発し、外国の脅威が高まると、徳川幕府は国防対策に着手しました。1842年4月、伊豆・韮山の代官であった江川太郎左衛門は、長崎の料理人を呼び寄せてパン窯を作らせ、兵士用の携帯食として「兵糧パン」の試作を大規模に行いました。この江川太郎左衛門が、日本人で初めて国産パンを製造した人物とされ、「パンの祖」と呼ばれています。この記念すべき日にちなみ、日本では毎年4月12日が「パンの日」と定められています。

しかし、開国後の明治時代、パンは依然として外国人居留地やホテル、西洋料理店などに限られた高級品でした。この状況を変えたのが、銀座木村家初代の木村安兵衛です。彼は、当時の欧風堅焼きパンに代わる「日本独特のパン」を考案しようと苦心しました。そして、米と麹で培養する酒種酵母菌を用いた「酒種あんパン」を生み出しました。1875年に明治天皇に献上されたことをきっかけに、あんパンは爆発的な人気を博し、急速に一般大衆に普及しました。この頃は、あんパンの他にもクリームパンやジャムパンなどの菓子パンが主流でした。

戦後の食パン普及と国産小麦の挑戦

パン食が日本人の食卓に定着し、主食となったのは第二次世界大戦後です。連合国軍最高司令官マッカーサーが日本に大量の小麦粉(メリケン粉)をもたらし、「日本人を米と魚の食生活から解放する」と言明したことが背景にあります。アメリカ式の「中種法(なかだねほう)」で作られた柔らかい食パンは、日本人の嗜好に合い、食卓のメインを占めるようになりました。1954年には「学校給食法」が成立し、全国の小中学校の給食で主食をパンにすることが定められ、パン食普及の大きな役割を担いました。

現代の日本では、食料自給率の課題や食の安全への意識から、国産小麦の利用促進が重視されています。パン用小麦の多くは外国からの輸入に依存しており、小麦全体の食料自給率は約11%、パン用小麦の生産はわずか3%という低い数値です。これは、日本の高温多湿な気候が、パン作りに適した強力小麦の栽培に適さないためです。しかし、長年の研究により、九州地方の温暖な気候でもたくましく育つ「ミナミノカオリ」という品種が開発されました。この品種は、上質なタンパク質を多く含み、水を加えてこねた際にできるグルテンが優れているため、ふっくらともっちりとした美味しいパンができるのが特長です。鹿児島県産の「さつまの恵」は、この「ミナミノカオリ」を使用した独自のブランド名であり、ソフトでしっとりとしたボリュームのあるパンに焼き上がります。国産小麦パンの消費を広げることが、生産量の増大につながることが期待されています。


パンの起源を辿ると、古代の野生の穀物採取から始まり、エジプトでの偶然の発見、ローマでの技術革新、そして日本での独自の菓子パン文化の発展、さらには現代の国産小麦への回帰に至るまで、人類の知恵と歴史が凝縮されていることがわかります。パンは単なる食べ物ではなく、人類の生存と文化、そしてアイデンティティに深く織り込まれてきた存在です。パンの過去を理解することが、健康、持続可能性、多様性を尊重する未来のパン作りへと私たちを導く鍵となるでしょう。

オリジィだよ!パンって、ただの食べ物じゃないんだね。文明が始まったころから人と一緒に生きてきたなんて、ちょっとロマンを感じるよ。エジプトの太陽の下で膨らんだ生地も、ローマの白パンも、日本のあんパンも、全部つながってるって思うと、なんだか温かい気持ちになるね。

ノロジィだよ。パンってたまにしか食べないんだけど、たまに食べるとすごい美味しく感じるんだよね。しかし、歴史はとても古いと知り驚いたよ。

参考文献Food Timeline / Food Studies / ヤマザキ / 鹿児島県パン工業協同組合/ 森永エンゼルカレッジ

Posted by Originology

世界には、たくさんの「はじまり」があります。その“はじまり”に出会うたび、「これって、どんなきっかけで生まれたんだろう?」と想像がふくらみます。Originologyは、そんな“はじまりの風景”をめぐる記録です。